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マスダック新時代へ!!

奥田信夫社長に聞く その① (連載第2回・全4回)

 エレクトロニクスとお菓子の世界

 

 1958年12月生まれ63歳。出身は熊本県。1981年九州大学法学部法律学科卒業後、松下電器株式会社入社。2008年11月、50歳を目前に退社後、3社の経営責任者を務めてきた。マスダック入社は2020年10月である。

 「松下に入社後、海外研修で2年間シンガポールに赴任しました。始めの1年はシンガポール大学に留学、後半はオーディオ関連の松下無線機器で、販売、輸出入、営業業務をローテーションで経験しました。帰国後は海外研修の延長で海外事業に回されるのか、との予想に反して、国内営業に配属されました。しかも配属先は大阪で、家電ではなく、松下電子部品の“特機と呼ばれるファンモーターや、電子制御ユニットなどBtoBの“ドブ板営業”」に従事した。

 初めて担当した得意先はダイキン工業だった。当時国内ナンバー1だった松下の部品を、自社製品に使うだけでなく、外販する仕事である。やがて、その電子部品実装機の営業を海外にも広げることになり、イギリスを除く西ヨーロッパ諸国をカバーするドイツのハンブルグの拠点に、企画部長兼営業部長として赴任する。

 「ハンブルグでの上司は、典型的なドイツ人でした。厳密で論理的。何事も言語化してキチンと説明しなくては、物事は動かない。曖昧を許さない理屈っぽい上司のもとで、さまざまな国での仕事を通して」得難い経験を積んだ。

 6年間のハンブルグ勤務から国内に帰ると、今度は海外事業や松下本部の戦略スタッフとして働く。この頃、松下にはリストラ(ライフプランの呼称で)の風が吹き出しており、頼りの先輩や上司がゴッソリと退職。奥田氏は40歳の若さで事業部長(営業所所長)に抜擢され、経営の道の「入口」に立つことになった。

 

 燃え尽きない“情熱”

 

 「海外営業などの経験はあるものの、ステージが上がることで仕事のフェーズが変わった。“事業”という視点が必要になり、上司の分社長(ドメイン社長の呼称)のもとで、さまざまな勉強をさせて頂いた。こういうことで、27年ほど電子部品及び電子部品実装機という領域ではありますが、モノ作りから国内国外での営業や戦略作りまで、多彩な経験をさせて頂いたことが、私の強みになったと思っています」。

 その後、49歳の2008年11月にパナソニックを去った。マスダック入社までの10年余り、奥田氏はその経験と実力を乞われ、中堅企業の経営の指揮をとることになった。

 「パナソニックの関連企業を手始めに、電子部品や半導体に関わる2企業、3社目は建設業。年商100億、200億円規模の企業経営に関わって60代」を迎えた奥田氏は、この10年でビジネスパーソンとしての達成感を得たものの“まだ60代”との想いもあった。そこへ古くからの知人を通じて、マスダックの話がもたらされたのである。62歳の誕生日の1カ月前のことだった。

 「パナソニックの関連企業を含め3社の経営に関わりました。私が歩んできた畑は、コンシューマに関らないBtoBのFA(ファクトリーオートメーション)の設備ビジネスの世界ですから、マスダックマシナリーに、親和性を感じました。またFAの世界とはいっても、ハードだけでは全然、商売にはなりません。部品材料+設備ハード+ソフトが三位一体になって初めて競争力が実現できます。ハードのスペック競争ではなく、お客様が期待する“価値”をこの三位一体でどう実現するのか、という点では、お菓子生産にも共通すると考えています」。

 マスダックに入社し、今実感しているのは、食には、個人それぞれの主観や官能という部分が非常に大きいということ。エレクトロニクスの世界にはなかった要素だ。お菓子独特のこの部分に奥田氏は新たな興味を感じ、研究中である。   

    (続く)