【新社長登場】有限会社米菓工房和 代表取締役社長 渡辺亮介 氏(前編)

一途に貫く「意思」と「行動力」で

 米菓工房和は、栃木県米菓界の匠として知られる渡邉和男氏が、2004年に創業。今年5月に和男氏は会長となり、長男の亮介専務が2代目社長に就任した。父とともに製造を担う2歳下の次男一平氏は専務となり、和は新たなトロイカ体制で歩みを開始した。

 やや高めのトーンの早口である。いつも機嫌が良さそうで、身のこなしが軽い。前年までのコロナ禍の苦境のなかでさえ「困りました」という声に陰りがなかった。生来の前向きキャラである。

 それもそのはず、小学生時代に剣道を習い始め、5段の今もライフワークとして、後進の指導にあたっている。また、大学生時代は大型バイクを愛し、沖縄を除く日本一周を達成。また、同時期に始めた登山を今も続けている。さらには書道。展覧会出品が楽しくてならないという。

 文武両道?と問うと「精神統一で集中できるところが好き」と、生真面目で一途な人柄ぶりである。

 スポーツマンであり、活動派だ。この5月26日に、米菓工房和の2代目社長に就任した渡辺亮介氏に、気負いは感じられない。53歳。専務として営業と管理両面で、経営を担ってきたから「特に変わりはありません」と笑う。

 父の和男会長は、丸彦製菓の山田行彦会長とは肝胆相照らす米菓の匠同士。若いころから技を競い合ってきた北関東米菓界の双璧だ。うるちともちの両刀使いであり、何でも作れる。84歳を迎え会長になったその職人気質の父のもとで、経営を支えてきた亮介社長には“その日”への備えはとうの昔からできていた。

 地元高校を卒業し、大学は兵庫県宝塚市にある甲子園大学に進学。栄養学部で食品工学を学んだ。醸造学や微生物学、実習では食肉加工などなど、食にまつわる幅広い知識を身につけた。

 「長男ということで、食に関る勉強をしたいという思いはありました。跡取りという話は特になく、両親は自由にさせてくれましたね。高校卒業後は、とにかく外へ出たいということで、関東でもよかったわけですが、私には“関西へ”という思いが強かったですね」

 大学がある宝塚市といえば宝塚歌劇団。未来のスターを夢見る宝塚音楽学校の女学生たちと、通学の電車を共にしていた。羨ましいですね、と問うと「清く、正しく、美しく、の彼女たちは本当に真剣で素晴らしいなァ…」と生真面目で、背筋の真っ直ぐな答が返ってきた。学生時代はバイクと山登り。「4年で卒業できたのだから、それなりに勉強もちゃんとやって居たわけで…」と照れる。

第26回全菓博名誉総裁賞の『一枚焼醤油』のシリーズは和の“技”の象徴だ

 卒業後は、滋賀県大津市の叶匠壽庵に入社した。

 「これも縁でしょう。履修したゼミで、叶匠壽庵を採りあげまして、興味を引かれて担当の先生を訪ねました。創業者の芝田清次さんのことが凄く気になって…そうしたら、紹介するから遊びに行ってみたら、といってくださり、もう嬉しくて飛び込むような気持で訪問しました」

 百年、二百年という老舗の多いなか、昭和33(1958)年創業の叶匠壽庵は当時“和菓子界のソニー”と呼ばれた存在だった。

 創業者の芝田清次氏は戦後、復員して警察官から市役所職員を経て、39歳で和菓子屋を始めた異色の人物だ。叶匠壽庵の代表製品といえば、今も昔も変わらぬ『あも』。求肥を丹波大納言の餡で包んだ竿物である。

 「遊びに行って一目惚れで入社を決めました」

 これが社会人としての第一歩だった。

           (後編へ続く)

★プロフィール★

 1969(昭和44)年2月生まれ。渡邉和男氏(現会長)の長男。弟に専務の一平氏と妹の3兄妹。地元高校から甲子園大学(兵庫県宝塚市)に進学。栄養学部食品工学科卒業。1991(平成3)年4月 22歳で叶匠壽庵(滋賀県大津市)に入社。現場で2年間、和菓子の基本である餡炊き、求肥練り、錦玉(ゼリー)の製造から、仕上げまでひと通りを学ぶ。その後の2年半は生産管理の業務を経験。※この間、24歳の年に裕子夫人と結婚。出会いは学生時代の他大学との交流会。夫人も栄養学の学生で、当時共通の趣味であったバイクが縁で結ばれた。1995(平成7)年 26歳で父の和男氏が興した日新製菓に入社。主に管理を担当。2009(平成21)年 40歳で日新製菓を退職し、米菓工房和に入社。専務として営業と管理に従事。※米菓工房和は2004年11月の創業。この年10月に日新製菓が亀田製菓の支援を受けて子会社となった折に、父の和男氏は日新の社長を退任(退社)。自宅と旧工場のあった現在地(宇都宮市宝木本町)で、操業を開始していた。後に次男の一平氏(現専務)が入社。2022年5月 53歳で社長就任。父の和男氏は会長に、弟の一平氏は専務に昇任し新体制がスタートした。