シリーズ継往開来 東あられ本鋪 ①

 先代の事業を受け継ぎ、それを発展させながら未来を切り拓いてく物語。シリーズ「継往開来」。今回は老舗の米菓メーカー「東あられ本鋪」の物語をお届けする。東京・両国の地で創業してから今年で111年。東京では最も古い伝統を誇る米菓メーカーだ。徹底した美味しさへのこだわりと温故知新と不易流行を経営の理念に据えた同社の過去・現在・未来を、小林正典社長(写真右)とその長男である小林宏太郎副社長(写真左)に語ってもらう。

温故知新と不易流行で111年

 本紙 両国の地で創業から百年余。数字以上に歴史の重みを感じます。

 小林社長 (以下社長)

東あられは今年で創業111年を迎えることができました。これも偏に、これまでご贔屓にしてくださったお客さまをはじめ、すべての方々の支えのお蔭です。本当に有り難いことです。

 初代は私の祖父にあたる小林桝恵美です。当時からここ両国(都内墨田区)で商売を続けています。両国は江戸時代の浮世絵師として世界的にも人気の葛飾北斎の生誕地と言われています。両国で生まれ育ったことに誇りを持っています。

 5年前に「すみだ北斎美術館」がオープンしたのを受けて、地元のいろいろな企業が力を合わせて、北斎関連のグッズを取り扱う「すみだづくり北斎商店」を開設しました。両国本店も一部スペ

ースを同商店にあてています。有名な北斎の「富嶽三十六景~神奈川沖浪裏」をあしらった大きな暖簾が自慢です。

 話を戻します。初代の小林桝恵美は明治43年(1910年)に近所の米と炭の納入先であった「江戸あられ」さん(関西が発祥の地)が廃業するにあたり、道具や技術を受け継ぐ形で商売を始めました。順調な道のりだったそうです。屋号に「あられ」と称しているのはその名残りですし、いまもおかきとあられを中心にしています。しかしその後、関東大震災と太平洋戦争により、2度にわたって社屋と工場を消失する災難に見舞われます。

 戦後になって2代目を継いだのが私の父である小林美之助です。美之助が東あられ「中興の祖」だと言っても過言ではありません。戦後間もない頃ですから、お米も簡単に手に入りません。そこで苦肉の策としてバターピーナッツを製造して、問屋や仲間、明治座や新橋演舞場などの劇場向けに卸売を始めたのです。これが当たります。売り上げも大きく上がり、会社の規模も大きくなっていきました。そうやって2代目は会社を再生させながら、事業を軌道に乗せていきました。

 戦後は「朝鮮特需」に始まり、その後の神武景気や岩戸景気などに象徴される高度経済成長時代へとひたすら駆け抜けていくわけですが、当社もその波に乗っていきました。特に昭和32年、関西の老舗百貨店であるそごうが東京に初進出、有楽町で開店することになりました。ご縁もあり、いまでいう「デパ地下」に出店(でみせ)を開店することができました。これは会社の歴史の中でもエポックメーキングな出来事となります。売上拡大に貢献しただけではなく「東あられ」の知名度を上げ、会社の評判を大いに高めることができたのです。

 ――いわゆる「暖簾の重み」ですね。ブランド価値を高められた。

 社長 その後も西武百貨店や東京駅ビルなどに積極的な出店を進めていきます。昭和38年になると、それまでの個人商店の形態から脱却して法人化を進め、いまの「株式会社東あられ本鋪」として新たなスタートを切るとともに業容も拡大させていきます。それに合わせて、昭和46年には千葉県八千代市に工場を移転させました。

 その後も西武百貨店とそごうの店舗展開と併行する形で出店数も増え続けます。平成2年になると、ANA(全日空)国内線の「茶菓」に採用されるという嬉しい出来事がありました。そこでは『東一福』を機内販売したのです。とても好評でした。これは一袋の中に7種類の一口サイズのおかきを入れるというもので、いまでは当たり前ですが、当時としては画期的なアイデアでした。この『東一福』はいまも当店の看板人気商品です。

 次号へ続く全4回)