ドリーム・カムズ・トゥルー!
「はじめまして、東京産カカオです」
平塚製菓(埼玉県草加市、平塚正幸社長)は2019年10月24日、渋谷ヒカリエ8COURT(都内渋谷区)で『TOKYO CACAO』の製品発表及び試食会を開催した。同社は「東京ブランド」のチョコレートを目指し、2003年から東京都小笠原村の母島で、カカオの栽培計画「東京カカオプロジェクト」を開始。史上初めて東京で栽培したカカオ豆からチョコレートを作り、『TOKYO CACAO』として製品化に成功した。
『TOKYO CACAO』の洗練されたパッケージデザイン
チョコレート屋のオヤジの「夢」叶う
発表会の冒頭、社長の平塚正幸氏は、「経営者であるからには、会社の成長は欠かせない。一方で、月並みな表現だが、夢を見たり、不可能なことへのチャレンジも忘れてはならないと考えている。今回のプロジェクトは経営者としてではなく、チョコレート屋のオヤジとして夢を見ることから生まれた取り組み。最初は自分一人の小さな夢だった。次第に大勢を巻き込む形となり、本日を迎えることができた」と、熱い思いを語った。
日本でチョコレートを長年作り続けてきたメーカーとして、「やってみたい」と強く思ったのが国産カカオの栽培。赤道を挟んで南北緯20度以内の、通称「カカオベルト」と呼ばれる地域でカカオは栽培される。年間平均気温27℃以上、年間降水量1000㎜以上の熱帯で、しかも気温差が少なく、喬木が作る半日陰の下、水はけが良くなければならない。条件に近い候補地として沖縄県も当初含まれていたが、検討を重ねるうちに平塚氏の夢は膨らんでいった。東京都の小笠原諸島で成功すれば、Made in TOKYOとして世界に日本産カカオを発信できる、と…
【続きは2020年新年特大号 5444号 40頁へ】
写真=発表会場内の渋谷ヒカリエ8COURT内には、東京産のカカオポッドが山積みに展示され、その大きさと色鮮やかさも注目の的となった
『TOKYO CACAO』原材料、東京産カカオは
全てここ、小笠原の地で実を結ぶ
2015年に完成したハウス第4号棟、5号棟。同年に第7号棟まで建設
2013年11月、平塚社長(左)と、小笠原から初収穫の実を持参した折田農園経営者の折田一夫氏(右)
「本当、チョコレート屋に生まれて良かった」
平塚正幸社長、語る。
プラスを生むOEMへ
2021年で創業120周年になるんだ。祖父は京都で和菓子屋、父も京都で生まれ、戦後に後を継ぎチョコレート屋にシフトした。かつては色々と手広くやっていたが、私が社長になって10年、会社がもうすぐ創業100年を迎える頃の事だ。
チョコレートだけでなく、焼き菓子やウエハース、キャンディの製造や販売など、手を広げ過ぎたという事もあり、うまくいかなくなっていた。モノを作ったり考えたり、クリエイティブな事をするのは好きだが、商売はどうも今一つ苦手だと感じてもいた。それでもこの局面を何とかしなければならない。最終的には業態変更を決意した。会社の理念や経営方針を洗い直し、自社ブランドを全てやめて、チョコレート専業のOEMメーカーにするという路線をスタートさせた。
当時、会長だった先代は、むちゃくちゃ私を恨み、「何を考えているんだ。OEMとか、カッコいい言い方をするが、要は下請けじゃないか」と。いや、そうではなく、提案開発型の技術力を持った会社になりたいんだと訴えたが、理解してもらえなかった。しかし、時代の流れがよかったのか、一つ一つ商売をやめていく一方で、反対にOEMの仕事を営業で取っていって。おかげさまで素晴らしいお客さん達と出会い、今に至っている。OEMへ舵を切った初年度から比べると現在は約3倍強の売上となった。品質力・開発力・対応力という、3つの力でお役立ちをする企業として成長し、今があるのだと思う。自社ブランドは無くなったが、ある意味、ウチの社員こそがブランドとなるよう努めてきた。
フラッグシップとしての『TOKYO CACAO』
『TOKYO CACAO』のプロジェクトは、チョコレート屋のオヤジの夢から始まったロマン。周りからは「オーナー企業だから勝手な事ができていいね」と言われたりもしたが、夢のために工夫し挑戦を続ければ、視野も広がる。新たな人間関係も生まれる。そして、社員みんなが一つになれるフラッグシップというか、象徴的なプロジェクトとして機能している。できなかったことができるようになるわくわく感を皆と共有していきたい。農地を広げたり、銀座に店を構えたりというビジネス第一ではなく、あくまで当社の象徴として大切にしようと考えている…
【続きは2020年新年特大号 5444号 44頁へ】
平塚正幸 氏 プロフィール
1950年東京都生。1973年、立教大学法学部卒業。同年、関西の大手菓子メーカーに入社。1974年、平塚製菓株式会社に入社。製品企画開発に注力、常務、専務などを経て、1990年、同社取締役社長に就任。